美術館で泣いたのは、あの日が初めてでした。
昔、神戸市立博物館で開催されていた「プーシキン美術館展」。
いくつもの名作が並ぶ展示室を進み、最後に現れたのが、シャガール《ノクターン》でした。
シャガールといえば、夢のように鮮やかな色彩と、空を舞う恋人たち。
青と緑、黄色に包まれた、幸福な幻想の画家。
⸻私はそんなイメージを持っていました。

ポストカード
けれど、《ノクターン》は違いました。
画面いっぱいに広がるのは、赤黒く、重たい赤。
美しいという言葉では表せない、どこか血を思わせる赤でした。

ポストカード
作品の前に立った瞬間、それまで見てきた展示の記憶が一気に遠のき、
気づけば、その一枚だけが世界になっていました。
周りの空間ごと絵に吸い込まれるように、私はただ作品と向き合っていました。
どのくらい時間が経ったのでしょうか。
10分だったのか、20分だったのか、それさえ分からないほど。
閉館が近かったこともあり、展示室にはほとんど人がいません。
ただ、静かな時間だけが、ゆっくりと流れていました。
そして突然、閉館のアナウンスが。
その瞬間、ようやく私は時間の感覚を取り戻しました。
美術館の閉館アナウンスを聞いたのは、あの日が初めてでした。
少し戸惑いながら立ち尽くしていると、スタッフの方が近づいてきて、
「申し訳ありません、閉館のお時間です」
とやさしく声をかけてくれました。
涙のたまった私の顔を見て、少し驚いたような表情をされたことを、今でも覚えています。
少し恥ずかしくて、でも涙は止まりませんでした。
絵から感じたのは、美しさでも、慰めでもありません。
そこにあったのは、言葉では受け止めきれないほどの「熱量」でした。
それまで私は、「命を削って作品をつくる」という言葉を、どこか比喩のように受け止めていました。
けれど《ノクターン》の前で初めて、その言葉を体感として理解した気がします。
命を削るとは、こういうことなのかもしれない、と。
シャガールもまた、自分の中にあるものを描かずにはいられなかったのではないでしょうか。
そう思わずにはいられないほどの、圧倒的な力がそこにはありました。
美術館を出たあとも、その感覚は消えませんでした。
帰りの電車は、一本の強烈な映画を観終えたあとのような余韻に包まれていました。
「あんな絵、途中には置けないよね。」
誰に話すでもなく、心の中でつぶやきました。
あの一枚は、展示の流れさえ変えてしまう。
私が学芸員でも、きっと最後に置く。
それくらい強い絵でした。
そして、もう一つ。
「ああ、私はやっぱり、絵画と関わる人生なんだ。」
そんなことを、妙に納得している自分がいました。
私は昔から、自分の感受性の強さがあまり好きではありませんでした。
人より傷つきやすくて、些細なことで心が揺れる。
「もっと鈍感だったら、生きやすいのに。」
そう思ったことは、一度や二度ではありません。
けれど、《ノクターン》の前で涙を流したあの日、初めて思いました。
この感受性があったからこそ、私はあの絵から受け取れたものがあったのではないか、と。
《ノクターン》には、喪失の悲しみや怒りも宿っていたのでしょう。
けれど私が最後に受け取ったのは、それだけではありませんでした。
シャガールが愛妻ベラへ向けた、燃え尽きることのない愛。
失ってもなお、愛し続ける力。
もうこの世にいない人へ、祈るように描き続ける力。
あの赤は、怒りや絶望の色ではなく、ベラへの想いが燃え続けた色だったのではないでしょうか。
だから今も私の中に残っているのは、喪失ではありません。
愛の余韻です。
そしてあの日以来、私は少しだけ、自分の感受性を受け入れられるようになりました。
強すぎると思っていた感受性も、ときには誰かの作品を受け取るためにあるのかもしれない。
そう思えたのは、《ノクターン》のおかげです。
あの日、美術館で受け取ったものを忘れないために。
これから、一枚の絵と出会った日のことを、自分の言葉で綴っていきたいです。

